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大阪地方裁判所 平成7年(ヨ)2812号 決定

債権者

杏林製薬株式会社

右代表者代表取締役

荻原秀

右代理人弁護士

唐澤貴夫

債務者

沢井製薬株式会社

右代表者代表取締役

澤井治郎

右代理人弁護士

大石和夫

藤田健

右輔佐人弁理士

高島一

主文

一  本件申立てを却下する。

二  申立費用は、債権者の負担とする。

理由

第一  申立ての趣旨

一  債務者は、別紙目録2記載の製剤を製造、販売してはならない。

二  債務者の別紙目録1記載のノルフロキサシン及び別紙目録2記載の製剤に対する占有を解いて、右物件所在地を管轄する地方裁判所執行官にその保管を命ずる。

第二  事案の概要

本件は、後記特許権を有する債権者が、債務者が製造、販売しようとしている別紙目録1記載のノルフロキサシンなる医薬化合物(以下「ノルフロキサシン」という)を含有する製剤である別紙目録2記載の製剤(商品名「キサフロール錠一〇〇」及び「キサフロール錠二〇〇」。以下、併せて「債務者製剤」という)は右特許発明の技術的範囲に属すると主張して、右特許権に基づき、債務者製剤の製造、販売の差止めを求めるとともに、債務者の保管する債務者製剤及びノルフロキサシンの執行官に保管させる旨の仮処分命令を申し立てた事案である。

一  債権者の有する特許権(争いがない)

1  債権者は、次の特許権を有する(以下「本件特許権」といい、その発明を「本件特許発明」という)。

登録番号 第一〇四一三三九号

発明の名称 新規置換キノリンカルボン酸

出願年月日 昭和五二年五月一六日(特願昭五二―五六二一九号)

出願公告年月日 昭和五五年九月四日(特公昭五五―三四一四四号)

登録年月日 昭和五六年四月二三日

特許請求の範囲 別紙特許公報の該当欄記載のとおり

2  本件特許発明に係る物質のうち、1―エチル―6―フルオロ―7―(1―ピペラジニル)―4―オキソ―1、4―ジヒドロキノリン―3―カルボン酸は、ノルフロキサシンという一般名を持つ医薬化合物であるが、債権者は、右のノルフロキサシンを含有する医薬品製剤を「バクシダール」の商品名をもって製造販売している。

二  債務者の行為(争いがない)

債務者は、ノルフロキサシンを含有する債務者製剤について薬事法上の製造承認を受け、右製剤は、平成七年七月七日付で薬価基準の収載が行われた。したがって、債務者は、きわめて近い時期において右製剤の製造販売を開始することになった。

三  争点

1債務者は、本件特許権について、平成六年一二月一四日に公布された特許法等の一部を改正する法律(平成六年法律第一一六号。平成六年一二月一四日公布、平成七年七月一日施行。以下「改正法」という)附則五条二項に基づく通常実施権を有するか。

(一)  債務者が債権者製品の製造、販売に向けてした製造承認申請等の行為は、改正法附則五条二項にいう「事業の準備」に当たるか。

(二)  債務者がした準備行為は「事業の準備」というにとどまらず、本件特許発明の実施そのものであり、本件特許権の侵害行為となり、これを「事業の準備」であるとして通常実施権を主張をすることは信義則に反しないか。

2 改正法附則五条二項による通常実施権を有するA株式会社からノルフロキサシンの原末を購入した債務者の行為は、いわゆる特許権の消耗理論により本件特許権の侵害にならないか。

3 債権者が本件特許発明の出願経過においてした明細書の補正は、願書に添付した明細書の要旨を変更するものであり、出願日が手続補正書の提出された昭和五三年一月二八日に繰り下がることにより、昭和五二年九月二〇日を優先日とする別件特許出願であって、本件特許出願後に出願公開されたものの願書に最初に添付した明細書又は図面に記載された発明と同一であるため、特許法二九条の二に違反して特許されたものであるとして、本件特許は無効となるべきものか。

4 本件特許発明は未成立であり、本件特許は特許法二九条柱書に違反してされたものであるとして、無効となるべきものか。

5 債務者物件たるノルフロキサシン含有製剤は、本件特許発明の技術的範囲に属するか。

6 保全の必要性

第三  争点1(債務者は、本件特許権について、改正法附則五条二項に基づく通常実施権を有するか)に対する判断

一1  本件特許権の存続期間は、旧法六七条によれば出願公告の日から一五年を経過した平成七年九月四日をもって終了するものであったところ、改正法六七条により特許出願の日から二〇年をもって終了すると改められたため、本件特許権は平成九年五月一六日まで存続することになったが、改正法附則五条二項により、本件において債務者が改正法の公布の日である平成六年一二月一四日の前に日本国内において本件特許発明の実施である事業の準備をしていた者に該当するときは、債務者は、旧法による存続期間の満了日(平成七年九月四日)の後、その準備をしている発明及び事業の目的の範囲内において、通常実施権を有することになる。

改正法附則五条二項は、旧法の下で他人の特許権の存続期間が満了することを前提として、その満了前にその特許発明の実施の準備を行っていた者に対し、改正法により延長された存続期間内に、その準備をしている発明及び事業の目的の範囲内におい通常実施権を与えることとし、もって、改正法により存続期間が延長されることにより発明の実施である事業の準備をしている者に不測の不利益を生じさせないこととし、特許権者と改正法公布の日の前から旧法による存続期間満了後の実施に向けて事業の準備をしている者との公平を図ることを目的とした規定であるが、ただ、他人の特許権の存続期間中にその侵害となる当該発明の実施である事業そのものをしている者まで保護する必要はないことから、そのような者には、右通常実施権を与えないこととしたものと解される。

2 改正法附則五条二項にいう発明の実施である「事業の準備」とは、いわゆる先使用による通常実施権を定める特許法七九条にいう発明の実施である「事業の準備」と同様、特許発明について、未だ事業の実施の段階には至らないものの、即時実施の意図を有しており、かつ、その即時実施の意図が客観的に認識される態様、程度において表明されていることを意味するものと解するのが相当である(最高裁昭和六一年一〇月三日第二小法廷判決・民集四〇巻六号一〇六八号参照)。

けだし、先使用による通常実施権を認めた特許法七九条は、改正法附則五条二項の規定と同様「発明の実施である事業の準備」という文言を使用している上、その立法趣旨も、主として特許権者と先使用者との公平を図ることにあり、前記のとおり特許権者と改正法公布の日の前から「発明の実施である事業の準備をしている者」との公平を図ることを立法趣旨とする改正法附則五条二項の立法趣旨と共通するというべきであるから、改正法附則五条二項にいう「事業の準備」を特許法七九条のそれと異なると解すべき理由はないからである。

この点につき、債権者は、国内法である改正法附則五条二項は、TRIPS協定(一九九五年一月一日発効した「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」の附属書一Cである「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」)で認められた範囲内においてのみ特許権の制限を課しうるものであるところ、TRIPS協定は、改正法附則五条二項の「発明の実施である事業の準備」に対応するものとして「当該行為について重大な投資が行われていた」(…acts…in respect of which a signifi-cant investiment was made)ときを挙げ、かかる場合にのみ特許権に対する制限をなしうるものとしているから、同条同項にいう「事業の準備」とは、実際に投資がなされ、しかも、その投資は「重大な投資」ないし「相当な投資」でなければならず、少なくとも、当該事業を商業的に継続して行える主要な設備を作るための投資がなされ、かつ、実際に当該設備が作られていることを意味すると解すべきであると主張する。

しかし、改正法附則五条二項にいう「発明の実施である事業の準備」をこれと規定の体裁及び立法趣旨をほぼ同じくする特許法七九条と同様に解するのが相当であることは前示のとおりであり、「事業の準備」があったというためには、即時実施の意図を有しているばかりでなく、その意図が客観的に認識される態様、程度において表明されていることが必要であり、それには必然的にその特許発明の実施に向けての相当の投資が行われていることを意味するものであるから、「事業の準備」の意義をそのように解したとしても前記TRIPS協定の趣旨に反するということはできない。右TRIPS協定にいう「a significant investiment」(「重大な投資」又は「相当な投資」)の内容、程度を必要以上に限定する債権者の主張は、失当といわなければならない。

二  そこで、債務者が債務者製剤の製造、販売に向けて、製造承認申請などいかなる準備行為をしたかについてみると、疎明(乙一、二の各1・2、三の1〜5、四、五の1・2、七、二三、二四の1・2、二五、二八、三三)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  債務者製剤についての製造承認の取得に至る経緯

債務者は、昭和六三年五月、債務者製剤たるキサフロール錠一〇〇及び二〇〇の開発を決定したが、若干の試作・研究をした後いったん右開発を中止した。ところが、債務者は、平成二年七月から債務者製剤を再度開発すべく、本格的にその試作・研究を開始した。その後の経緯は、次のとおりである。

(一) 錠剤の試作・研究

平成二年八月〜平成三年一一月(同月二二日に試作完了)

(二) 規格・安定性試験

(1) 平成三年五月 原末(ノルフロキサシン)の規格及び試験方法の検討

(2) 同年七月二二日〜三一日 原末試験

(2) 同年一一月二五日〜三〇日 予備安定性試験測定〇週目

(3) 同年一二月九日〜一三日 予備安定性試験測定二週目

(4) 同月二四〜二八日 予備安定性試験測定四週目

(5) 〜同月二八日 経時変化測定一か月目

(6) 平成四年二月二八日〜三月五日経時変化測定三か月目

(7) 同年五月二九日〜六月五日 経時変化測定六か月目

(三) 生物学的同等性試験

(1) 平成三年八月二七日 社内治験審査委員会

(2) 同年一一月二五日 治験統括医師依頼

(3) 同年一二月三日 病院治験審査委員会

(4) 同月一〇日から一二日 予備試験(投与及び採血)

(5) 同月一六日〜一九日 予備試験(血中濃度の測定)

(6) 平成四年一月二一日〜二三日本試験一回目(投与及び採血)[キサフロール錠一〇〇]

(7) 同月二七日〜三〇日 本試験一回目(血中濃度測定)[キサフロール錠一〇〇]

(8) 同月二八日〜三〇日 本試験一回目(投与及び採血)[キサフロール錠二〇〇]

(9) 同年二月三日〜六日 本試験一回目(血中濃度測定)[キサフロール錠二〇〇]

(10) 同月四日〜六日 本試験二回目投与及び採血[キサフロール錠一〇〇]

(11) 同月一〇日〜一四日 本試験二回目(血中濃度測定)[キサフロール錠一〇〇]

(12) 同月一一日〜一三日 本試験二回目(投与及び採血)[キサフロール錠二〇〇]

(13) 同月一七日〜二〇日 本試験二回目(血中濃度測定)[キサフロール錠二〇〇]

(四) 薬事法一四条一項に基づく製造承認申請等

(1) 平成四年六月二九日 医薬品製造承認申請

(2) 平成六年一一月九日 医薬品製造承認

2  製造設備の準備

(一) 錠剤製造用の杵・臼の発注、受領

債務者は、債務者製剤(錠剤)の形状を決定した上、平成五年八月頃から平成六年一一月頃にかけて、これを製造するときに必要な杵の設計図を次のとおり打錠機の製造販売業者である株式会社畑鐵工所(以下「畑鐵工所」という)に提出させ、同年一一月九日及び同年一二月一三日に打錠機用取付杵臼杵先、臼穴硬質クロームメッキ付(HT―AP45MS―Ⅱ型)及び原型代を含め合計一七一万五〇〇〇円の見積書(乙三の2・5)を提出させた。なお、これらの杵、臼等は、改正法公布後の平成七年二月八日に注文書が発行され(乙二三、発注金額一五〇万円)、同年五月三〇日及び三一日に納品され(乙二五)、同年八月三一日にその代金が支払われた。

(1) 平成五年八月三〇日作成日付のΦ九mm無印杵の設計図(乙三の1)

(2) 平成六年一一月一四日作成日付のΦ七mm「SW010」マーク入り杵、Φ九mm「SW011」マーク入りの杵の設計図二部(乙三の3)

(3) 平成六年一一月三〇日作成日付のΦ七mm「SW010」マーク入り杵、Φ九mm「SW011」マーク入り杵の設計図二部(乙三の4。(1)及び(2)の各設計図に係る母型の形状を変更したもの)

債権者は、債務者は既に「SW010」及び「SW011」の製剤識別記号を使って、別の製剤(ピドピドンというビタミンB6剤)を販売している(甲六、七)から、キサフロール錠に使用するためにこれらの臼や杵の見積りをもらったというのはおかしい。また、ピドピドン錠の「SW010」及び「SW011」の記号は、いずれも製剤の包装部ではなく、本体に付されているものであることからすれば、債務者はこれらの記号を付することが既に可能だったのであり、キサフロール錠のためにこれらの臼及び杵を新たに購入する必要もないし、そもそも図面や見積書も不要なはずであって、右の臼や杵が真にキサフロール錠の製造のためのものかは疑問である旨主張する。そこで検討すると、木村繁著「医者からもらった薬がわかる本[八九―九〇年版]」(甲六)には「ピドピドン」なる商品名の製剤が「SW010」及び「SW011」の識別記号で記載され、薬業時報社「医療用医薬品識別ハンドブック[九三年版]」(甲七)には「ピドピドン三〇」なる商品名の製剤が「SW011」なる識別記号で記載されているから、その頃、債務者が債務者製剤とは別に「SW010」及び「SW011」なる識別記号を付した製剤を販売していたことが認められる。しかし、疎明(乙二〇の1・2、二一の1〜5、二六)によれば、「SW010」なる識別記号を付した「ピドピドン一〇」については、債務者は、昭和六三年四月二一日付で製造中止を理由として薬価基準収載品目削除願(乙二〇の1)を厚生省担当部局宛提出し、厚生省告示第八六号により平成二年三月三一日限り保険医及び保険薬剤師の使用医薬品であることを廃止され、平成二年四月版以降の保険薬事典から削除されていること(乙二〇の3・4)、そして、「SW011」なる識別記号を付した「ピドピドン三〇」については、債務者は、平成四年六月八日付で製造中止を理由として薬価基準収載品目削除願(乙二一の1)を厚生省担当部局宛提出し、厚生省告示第一二七号、同二二六号により平成五年三月三一日限り保険医及び保険薬剤師の使用医薬品であることを廃止され、平成六年四月版以降の保険薬事典から削除されていること(乙二一の4・5)がそれぞれ認められる。そして、乙第二二(一九八七年一〇月現在の債務者の製品一覧表)、第二六号証によれば、ピドピドン一〇及びピドピドン三〇は、いずれも錠剤本体には右識別記号が刻印されていないことが認められるから、前記杵等を新たに購入したのはキサフロール錠に右識別記号を錠剤本体に刻印するため必要であったということができ、右目的でこれを新たに購入したことが不合理であるとはいえない。

(二) 錠剤包装用の自動包装機の機種決定及び専用交換部品の見積り

錠剤を包装するときに使用する自動包装機の機種を決定するため、債務者製剤研究課係員は、平成六年一一月一六日、債務者九州工場課長にキサフロール錠二〇〇約三〇錠及び別の錠剤の包装に使用しているPTPシート二シートを送付して、債務者製剤に使用する包装のトリミングサイズを検討させ(乙四)、自動包装機の機種を決定した。次いで、債務者は、同月一八日、シーケーディ株式会社(以下「シーケーディ」という)に対し右自動包装機に必要な専用の交換部品(FBP―S3)の見積書(乙五の1・2)を提出させた(見積金額は、運賃納入調整費を含め三〇七万円)。

債権者は、乙第七号証(平成七年一〇月作成の債務者製剤のパンフレット)の「剤形」欄には、キサフロール錠二〇〇は厚さ4.5mmであると記載されているのに、乙第四号証(債務者製剤研究課員が債務者九州工場担当課長に宛てたキサフロール錠二〇〇の包装部品に関する事務連絡)、乙第五号証の1・2(シーケーディ作成の債務者宛自動包装機の専用交換部品の見積書)では4.0mmとして包装シートが検討されており、もしそれを前提として乙第五号証の1・2の部品が取り換えられたのでは、サイズが合わず包装工程が行えないから、これらが本当にキサフロール錠のためのものであったのか疑問である旨主張する。しかし、疎明(乙三の3・4、四、二七、二八)及び審尋の全趣旨によれば、キサフロール錠二〇〇の厚さは当初4.0mmとされていたため、債務者の生産管理部の係員は、平成六年一一月一六日頃、これに基づいて自動包装機専用の交換部品の納入をシーケーディに依頼し、同月一八日に同社から見積書を受け取っていたところ、その後キサフロール錠二〇〇のR面を二段Rに変更することが明らかにされたため、直ちに打錠用杵の母型図の修正を畑鐵工所に依頼し、修正後の母型図及び錠剤サンプルができあがるのを待って、同年一二月七日に右母型図及び錠剤サンプルをケーシーディの担当者に渡して部品の再検討を依頼し、同月二〇日に同社から右修正後の使用に従った部品の納入を受けている(その納入仕様書[乙二八]に添付されたシート寸法図には、錠剤の厚さが「4.5±0.2」記載されている)ことが認められる。したがって、債権者の指摘するような疑問とすべき点はないというべきである。

三1  右二の1及び2の事実を総合すれば、債務者は、改正法公布の日である平成六年一二月一四日前に、旧法六七条一項による本件特許権の存続期間満了(平成七年九月四日)の後直ちに債権者の製剤である「バクシダール」を先発製剤とする後発製剤たる債務者製剤を製造販売する意図のもとに、債務者製剤の試作品を製造し、少なからぬ費用を投じて、規格及び試験方法を設定した上債務者製剤の試作品を使用して規格・安定性試験及び生物学的同等性試験本試験を実施し、更に平成四年六月二九日に、薬事法一八条に基づく債務者製剤の製造を行う旨の医薬品製造承認申請を行ったものであり、かつ、債務者は、錠剤である債務者製剤の形状を決定した上、債務者製剤を製造するために必要な杵の設計図を打錠機の製造販売業者に提出させ、打錠機用取付杵臼杵先、臼穴硬質クロームメッキ付(HT―AP45MS―Ⅱ型)及び原型代を含め合計一七一万五〇〇〇円の見積書を提出させたこと、更に、錠剤を包装するときに使用する自動包装機の機種を決定するため、債務者九州工場課長にキサフロール錠二〇〇約三〇錠及び別の錠剤の包装に使用しているPTPシート二シートを送付して、債務者製剤に使用する包装のトリミングサイズを検討させ、自動包装機の機種を決定し、シーケーディに対し右自動包装機に必要な専用の交換部品の見積書(見積金額は、運賃納入調整費を含め三〇七万円)を提出させたというのであるから、債務者は、改正法公布の日前に、旧法六七条一項による本件特許権の存続期間満了(平成七年九月四日)の後、即時に本件特許発明を実施する意図を有しており、かつ、その即時実施の意図が客観的に認識される態様、程度において表明されていたものということができる。

2  債権者は、債務者の行った医薬品製造承認申請行為は、債務者製剤を商業的に生産するに向けての重大な投資行為あるいは設備の建設行為というには程遠いものであり「事業の準備」には当たらない旨主張する。確かに、医薬品製造承認申請行為の前提となる資料収集行為としての生物学的同等性の確認試験等で使用されるノルフロキサシンは、主として製造承認を得る目的でごく少量生産、使用されるものであって、それ自体は直接商業的に生産することに向けられたものではない。しかし、製造承認申請行為及びそのための添付資料作成行為は、いずれも債務者製剤を製造販売する前提として不可欠な行為であって、それ自体相応の費用を要することに加え、債務者は、債務者製剤を製造するために必要な設備の調達行為ともいうべき一連の行為、すなわち第三者に依頼して杵等の設計図を作成させ、その見積書を徴求するなどしたというのである。したがって、右債務者の行為は、総合的にみて、これを本件特許発明の実施である事業の準備ということができる。右説示に反する債権者の主張は採用できない。

四  次に、債権者は、債務者製剤の製造承認申請に必要な添付資料を作成するため、ノルフロキサシンを使用し、債務者製剤を試作することは、業として本件特許発明を実施するものであり、本件特許権を侵害する行為そのものであるから、改正法附則五条二項にいう「事業の準備」に該当せず、かかる特許権侵害行為を同条項所定の通常実施権取得の原因として主張するのは信義則に反し許されない旨主張する。

1 特許権者は、業として特許発明の実施をする権利を専有するところ(特許法六八条)、ここにいう「実施」とは、本件特許発明のように物の発明にあっては、その物を生産し、使用する行為を含む(同条二条三項一号)。前記認定のとおり、債務者は、債務者製剤の製造承認申請に必要な添付資料を作成するため、ノルフロキサシンを含有する債務者製剤をごく少量試作して各種試験を行い、生物学的同等性試験の本試験において債務者製剤を試験薬として健康成人男子に投与して使用したものであって、債務者の右行為は、一応特許法二条三項一号に定める「その物を生産し、使用」する行為に該当するといえる。また、債務者の右行為は、専ら本件特許権の存続期間満了後に債務者製剤を販売することを可能にする薬事法上の製造承認を得ることを目的としたものであり、その意味で債務者の事業活動の一環としてなされたというべきであるから、右行為は「業として」なされたといえる。更に、債務者の右行為は、右のとおり専ら債務者製剤について製造承認を得るための必要からなされたものであり、技術の進歩を目的としたものとはいえないから、特許法六九条一項所定の「試験又は研究のためにする特許発明の実施」ということもできないものというほかない。右説示に反する債務者の主張は、採用できない。

2 しかしながら、本件のように、債務者が旧法による本件特許権の存続期間内ではなく、その存続期間満了後に本件特許権の技術的範囲に属する債務者製剤を製造、販売することを目的として、薬事法に基づく製造承認申請についての標準的事務処理期間を考慮して本件特許権の存続期間内に予め厚生大臣に対し製造承認申請をし、右申請に必要な添付書類を整える目的で生物学的同等性試験等前記各試験を行うためのごく少量の債務者製剤を試作的に製造し、使用した行為は、形式上は特許法六八条にいう「業として特許発明の実施」をする行為であるとしても、改正法附則五条二項にいう「発明の実施である事業の準備」に該当するものであって、「発明の実施である事業」にはいまだ該当しないものというべきであり、また、このような行為は、特許権侵害行為としての実質的違法性を欠くというべきであって、これが「発明の実施である事業の準備」たる行為の一部を構成しているとしても、これを改正法附則五条二項所定の通常実施権取得の原因として主張することが信義則に反するということはできないというべきである。その理由は次のとおりである。

「発明の実施である事業の準備」とは、前記のとおり、先使用権について規定する特許法七九条と同様、未だ事業の実施の段階には至らないものの、即時実施の意図を有しており、かつ、その即時実施の意図が客観的に認識される態様、程度において表明されていることを意味するものと解すべきである。そして、ここでいう「発明の実施である事業」は、販売等を目的としない、単に右発明に係る物品を試作的にごく少量のみ製造、使用する行為などを含まないというべきであり、右のような行為は、せいぜい「発明の実施である事業の準備」に該当するか否かが問題になるだけであると解すべきである。けだし、特許法七九条にいう「発明の実施である事業」が販売等を目的としないような、単に発明に係る物品を試作的にごく少量のみ生産し又は使用する行為を含むとすれば、その前段階である「発明の実施である事業の準備」として認められる範囲が不当に広範囲に及ぶことになってしまい(例えば、販売を目的としない一個の試作品を製造するために必要とされるごく軽微な準備行為まで同条にいう「発明の実施である事業の準備」に含まれることになってしまう)、特許権者と先使用者との公平を図ることを主たる目的とする同条の立法趣旨にそぐわないことになるからである。したがって、同条と主たる立法趣旨を同じくする改正法附則五条二項の「発明の実施である事業の準備」の意味を解釈するに当たっても、旧法による本件特許権の存続期間内ではなく、その存続期間満了後に本件特許権の技術的範囲に属する医薬品を製造、販売するため、薬事法に基づく製造承認申請についての標準的事務処理期間を考慮して本件特許権の存続期間内に予め厚生大臣に対し製造承認申請をし、右申請に必要な添付書類を調える目的で生物学的同等性試験等前記各試験を行うためのごく少量の右医薬品を製造し、使用することは、同条にいう「発明の実施である事業」には当たらないというべきである。もし、仮に右のような製造承認申請に必要とされる試験に供する限度での医薬品の製造までも「発明の実施である事業の準備」ではなく「発明の実施である事業」に該当するとして右規定による保護を受けられないとすれば、医薬品の場合、改正法公布の日前に「発明の実施の事業の準備」をしていたもの、すなわち、即時に特許発明を実施する意図を有しており、かつ、その即時実施の意図が客観的に認識される態様、程度において表明されていたものと認められる場合は実際上存在し得ないことになるが、そのような結論は改正法附則五条二項の趣旨に反し、相当でないというべきである。

そして、本件において、債務者が薬事法上の製造承認を得るため、製造承認申請に必要とされる各種試験に供する目的で、これに必要な限度でごく少量の債務者製剤の試作的な製造、使用をしたことは、形式上本件特許発明を業として実施したものであるとしても、本件特許権の存続期間内における債務者製剤の製造、販売を意図してこれに向けられた行為ではなく、専ら本件特許権の存続期間満了後における製造、販売を目的としていたものというべきであるから、その意味で本件特許権の存続期間内において本件特許発明を独占的に実施しうる債権者の法的地位を何ら脅かすものではないこと、また、前記改正法附則五条二項の立法趣旨に照らし、特許権侵害行為としての違法性を欠くものと評価するのが相当である。したがって、これを通常実施権取得の原因として主張することが信義則に反し許されないとすることはできないというべきである。

以上のとおりであるから、債務者は、旧法六七条一項による本件特許権の存続期間である平成七年九月四日から改正法六七条により延長された存続期間満了日である平成九年五月一六日までの間、本件特許権について通常実施権を有するというべきである。

第四  結論

よって、債権者の申立ては、その余の債務者の主張の当否について判断するまでもなく、被保全権利の疎明がないことに帰するからこれを却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判官田中俊次)

別紙〈省略〉

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